夢中になって暮らせれば何でもいい

夢中になって暮らせれば何でもいいというのは、フィッシュマンズによる一節より。

ジャズと凩(寺山修二の俳句より)

僕の好きな俳句の一つに、寺山修司の俳句がある。

「もしジャズが止めば凩ばかりの夜」
という句である。
 
「もし」、とあるので今はジャズが演奏中である。そのジャズが止めばということなのだろう。ジャズが演奏されているライブハウスかレストランかバーかどこかにいるのを想像するのが素直で、外で吹く凩が時々室内にまで聞こえてくるような冬の夜だろうか。今まさに演奏中のジャズ演奏に目を向け、耳を向ける。トランペットの音は凩のようでもある。とくにミュートトランペットの枯れたような感じは凩のようか。マイルス・デイビスの吹くトランペットを想像する。ベースは凩の吹くべき夜の闇の雰囲気を作る。ピアノやドラムは、凩によって揺れる木々や、転がる路上の缶か。
 
ジャズは凩のようである。そして、ジャズが止めば凩のみというが、実際は凩によってジャズは止まず、音楽は続いていくようである。

淡味

先日映画館で見た『千年の一滴 だし しょうゆ』の話の続き。

この映画で曹洞宗の禅寺が出てくる。曹洞宗道元の言う六味には、「苦・酸・甘・辛・鹹」に加えた淡味があるというのだが、それが素材そのものの味だという。映画では旨味でこの素材そのものの味を引き立てるような観点で述べられていた。道元は旨味に通づるものを見抜いていたということらしい。ところで、自分でも別の観点でこの「淡味」について考えていた。

味である以上苦・酸・甘・辛・鹹」(あと強いて言うなら痺れとか渋みがあるか)のどれかには当てはまりそうなものだ。ただ、この「淡味」というのがあるような気がする。何かよくわからないが、食べ物の「味」というものにとっては本質的なもののように感じられたからだ。だから、映画を観た後もずっとこの「淡味」というものについて考えていた。

考えながら、いつも作る夕飯の食材を生で味わってみたり、お味噌汁やおかずの味をいつもより少し薄目にしてみたりしながら考えていた。

さて、淡味に関する今のところの一つの捉え方を述べる。同じ甘さでも人参や大根や果物の持つ甘さと砂糖の甘さは何か違う、同じ苦味でも魚の腸の苦味とゴーヤーの苦味は違う、これらの違いが淡味ということだろうということ。苦・酸・甘・辛・鹹」と並列に語るのではなく、それらに個性的な服を着せるようなもの。或は、楽器における音色のようなもので、単なるCとかAとかではなくその音を特徴づけるもの。後者の例をとると、淡味を生かすことで、さまざまな楽器が奏でるシンフォニーを構成しうるのではないかということを考えた。

それと素材自体の味を感じながら考えたことがある。普段、COOKPADとかレシピ本でレシピを探し、材料や分量、手順を調べて調理をすることが多い。で、たんたんと折り紙かなんかの手順書を読むように料理を作っていく。でも、よく考えると素材自体の味を知らずに作っている。奥さんの実家の大根はとても甘くて、まるでサトウキビのようだ。それはおそらく採れたてだからなのだが、その大根とスーパーで買ってきた大根は調理の仕方は異なってしかるべきではないか。また、味見は出来上がりをみるだけでは遅くて、単品の時も含めて、加熱による温度変化や他の素材と合成する過程過程で素材の味の変化を確かめ、それに応じた調整をする必要があるのではないか。甘みが足りない大根であっても加熱の仕方で甘みが変わることもあるのではないのだろうか。

北大路魯山人の『魯山人味道』だったと思うが、料理と書いて「理を料る」という。何か不思議と、そのことと淡味に関する思索が重なって、レシピを調べるだけではきちんと料理ができるわけではなく、まず素材と対峙しその本来の味を見極めることが先決であり、それを将棋の駒として、戦略・戦法としての料理の手順や技法があるのではないだろうか。大根を使うには大根である理由が本来なければならないし、人参を使うのには人参を使う理由もなければならない。同じ根菜ではなく、大根が大根であり人参が人参であることは味自体を殺さずむしろ強化し引き出せれば、料理は本来あるべき姿に最も近づくような気がする。

テレビ『月曜から夜ふかし』

日本テレビの『月曜から夜更かし』を観るのを毎週楽しみにしている。

大抵は夜更かしをするわけでもなく録画したものを観るが、この番組の視聴時間に小さな幸せを感じる。マツコの機転の利いた頭の良いトーク力もある。村上は特段面白いことを言うわけではないが、元気で親しみのあるお兄さん司会的なところがいい。マツコと村上のセットでバランスがとれていると思う。

深夜番組の時間帯で長く続けて欲しいと思う番組だ。どうでもよいくだらないテーマの深堀の仕方がうまく、肩の力を抜いてゲラゲラ笑って観れるのがいい。

映画『千年の一滴 だし しょうゆ』

ポレポレ東中野で『千年の一滴 だし しょうゆ』という映画を観た。この映画は単に「食」について描いているわけではなかった。様々な形の日本の「美しさ」に心を打たれる映画だった。

まず、日本列島の自然が、特に菌類に関するミクロの世界描かれていて、その様子が美しく感動する。昆布の微細な変化や本枯れ節のカビ、椎茸栽培焼畑農業における森の再生の様子が美しい。麹菌(アスペルギルス・オリザ)の力強く美しい生命力も感じずにはいられない。

そして、海、森、そしてそこに住む生命と共存する人々の「仕事」にも心を打たれる。自然を五感ないし六感で感じ取り、そして、代々伝わる伝統的な手法を守り続ける人々。自然の力を利用して旨みをひきだす昆布漁師、森と対話する椎茸の生産者、カビを極めルビー色の鰹節を作る本枯れ節の職人、蔵に住む菌と共存しする醤油職人、稲霊から麹菌を採取する杜氏、代々の種麹を守り続ける種麹屋。彼らの仕事はある意味、映画の前半にある曹洞宗の禅寺にも通づる神聖な行いのように映った。

出汁を「ひく」とは、日本の自然の中から「引き」出すことだということを感じた。それは、仏師が木の中にある仏を彫り出すのに近いのかもしれない。

日仏合作ドキュメンタリー『千年の一滴 だし しょうゆ』公式サイト

so

プロジェクトで英語が飛び交う環境にあって1年半、残念なことに思ったほど英語力は向上していない。その中でもいくつか得たものはある。一つ使い慣れてきた英単語があって、その一つが文頭に使用するsoだ。(ちなみに、ノンネイティブ大多数のプロジェクト環境なので、ニュアンスを確実に習得したかは実際は怪しい。実用的な英語ではありそうだけれど。)

この単語は割と便利で、状況をつらつらと説明した後や議論が複雑化したあとに、「so」を使って「ということで」、「要するに」の感覚で使って、一連の内容を受けて結論めいたことを言える。あと、会議を始めるときに使うと、「さて、会議を始めましょうか」という具合に、会議モードに雰囲気を切り替えたりできる。便利な単語だからか、やたらと「so」が使われているような気がしないでもない。個人の感覚的には文頭の「so」の作用は「とりまとめ」と勝手に解釈している。会議の司会者やファシリテーターにおすすめの英単語だと考えている。ただし、くれぐれも論理が飛躍したりしないことがいずれにせよ肝要。