夢中になって暮らせれば何でもいい

夢中になって暮らせれば何でもいいというのは、フィッシュマンズによる一節より。

淡味

先日映画館で見た『千年の一滴 だし しょうゆ』の話の続き。

この映画で曹洞宗の禅寺が出てくる。曹洞宗道元の言う六味には、「苦・酸・甘・辛・鹹」に加えた淡味があるというのだが、それが素材そのものの味だという。映画では旨味でこの素材そのものの味を引き立てるような観点で述べられていた。道元は旨味に通づるものを見抜いていたということらしい。ところで、自分でも別の観点でこの「淡味」について考えていた。

味である以上苦・酸・甘・辛・鹹」(あと強いて言うなら痺れとか渋みがあるか)のどれかには当てはまりそうなものだ。ただ、この「淡味」というのがあるような気がする。何かよくわからないが、食べ物の「味」というものにとっては本質的なもののように感じられたからだ。だから、映画を観た後もずっとこの「淡味」というものについて考えていた。

考えながら、いつも作る夕飯の食材を生で味わってみたり、お味噌汁やおかずの味をいつもより少し薄目にしてみたりしながら考えていた。

さて、淡味に関する今のところの一つの捉え方を述べる。同じ甘さでも人参や大根や果物の持つ甘さと砂糖の甘さは何か違う、同じ苦味でも魚の腸の苦味とゴーヤーの苦味は違う、これらの違いが淡味ということだろうということ。苦・酸・甘・辛・鹹」と並列に語るのではなく、それらに個性的な服を着せるようなもの。或は、楽器における音色のようなもので、単なるCとかAとかではなくその音を特徴づけるもの。後者の例をとると、淡味を生かすことで、さまざまな楽器が奏でるシンフォニーを構成しうるのではないかということを考えた。

それと素材自体の味を感じながら考えたことがある。普段、COOKPADとかレシピ本でレシピを探し、材料や分量、手順を調べて調理をすることが多い。で、たんたんと折り紙かなんかの手順書を読むように料理を作っていく。でも、よく考えると素材自体の味を知らずに作っている。奥さんの実家の大根はとても甘くて、まるでサトウキビのようだ。それはおそらく採れたてだからなのだが、その大根とスーパーで買ってきた大根は調理の仕方は異なってしかるべきではないか。また、味見は出来上がりをみるだけでは遅くて、単品の時も含めて、加熱による温度変化や他の素材と合成する過程過程で素材の味の変化を確かめ、それに応じた調整をする必要があるのではないか。甘みが足りない大根であっても加熱の仕方で甘みが変わることもあるのではないのだろうか。

北大路魯山人の『魯山人味道』だったと思うが、料理と書いて「理を料る」という。何か不思議と、そのことと淡味に関する思索が重なって、レシピを調べるだけではきちんと料理ができるわけではなく、まず素材と対峙しその本来の味を見極めることが先決であり、それを将棋の駒として、戦略・戦法としての料理の手順や技法があるのではないだろうか。大根を使うには大根である理由が本来なければならないし、人参を使うのには人参を使う理由もなければならない。同じ根菜ではなく、大根が大根であり人参が人参であることは味自体を殺さずむしろ強化し引き出せれば、料理は本来あるべき姿に最も近づくような気がする。